若い頃、メディアの末端に連なり仕事をしていました。文字通り、都会の真ん中での華やかな仕事。刺激的で変化に飛んだ、面白くてやり甲斐のある仕事。けれども古い価値観の中で育っていたので、いま思えば可愛らしいくらい愚かでしたが、女性の一番の仕事はまずは子育てと志し、結婚を機にあっさりと職から離れてしまいました。信じられないことですが、ことにコリアンコミュニティーでは25歳ともなるとクリスマスケーキになぞらえて「売れ残り」などと言われる時代だったのです。跳ねっ返りで、絵に描いたようなキャリアウーマンに憧れ、生煮えのフェミニズムに陶酔していましたが、しかしこの世に子供を産み育てること以上に尊い仕事があるとは(いまもですが)考えられなかったのです。幸いなことに赤ちゃんが大好きで、刺繍や編み物といった針仕事や手仕事も嫌いではない。食いしん坊だったために料理をするのも苦にならず、理想の家庭を築くというのが(いまもですが)夢でした。田舎の家での夫の両親との同居というアクシデントを除けば、どうにか24歳で結婚し、おおむね当時の典型的な女性のレールに乗れたことに安堵していました。しかし、嘘はつけないものです。幸せになるはずだったのに、何かがおかしい。東の都会から西の田舎へ、責任もなく自由だった娘時代から、一挙に大家族を担う長男の妻・嫁の立場へ。このカルチャー・ショックは思った以上の打撃となり、日々はとうてい幸せとは言い難く、子育ては毎日が必死で楽しむどころではありませんでした。夢見ていた結婚生活に自由な時空はほとんどなく、夫と妻は対等に議論を楽しむどころか、奴隷のように家事をこなす一人の専業主婦と、24時間働かされる企業戦士の組み合わせに成り果てていました。そうして瑞々しかったわたしはくたびれてしょっちゅう体調を崩し、体重はみるみる減ってやつれて行きました。軽いノイローゼです。心身一如とはよく言ったもので、頭は理想を掲げ理屈をこね回しても、体というのは実に正直に現実を表します。しかし、この頃でもまだわたしは傲慢で「身体の声を聴く」ということができませんでした。どこまでも頑張ろうとするのです。
身体性といえば、今や急激にLGBTQなどが言われるようになりましたが、さまざまな有り様を認め、排除することなく尊重しなければならないことは当然ですが、正直なところ理解の及ばないことが多く戸惑いがあります。保守的なのでしょうか、むしろ最近では自然界が作り与えてくれた雄と雌、男女の違いの尊さを思うようになっています。男女がそれぞれの違いを尊重し、互いに支え助け合い、違いを楽しむ真に平等な自由なあり方すらまだ確立されていないというのに、野太い声の、見るからに大きな男性たちに「ボクの性自認は女だ」と主張されると、ただひたすらに怖いのです。もとより、世の中の力関係がどちらかに偏り、どちらか一方だけが力を持つようになるとロクなことになりません。世界は老若男女の調和が取れていてこそ円満だと考えています。人の世は野蛮だった時代が長すぎたために、腕力の強い男が重宝されすぎました。体格が違うのですから今だって暴力などを振るわせたら男が強いに決まっていますが、現代は科学や技術が進み、力仕事もボタンひとつで誰にでもできることが多くなりました。女性がダンプや大型バスを運転する姿も普通の風景になりました。むしろ穏やかな運転に安心するほどです。ましてや頭の良し悪しに性別が関係ないことは、もう証明済みです。 何を正義とするか、ルールの厳守などという指向性も、性別には関わりのないことです。あるとすれば、男女の違いで最も顕著なのは…ジェンダーというよりも体格からくる「暴力性」だけなのではないか、という気がしてならないのです。何かといえば、手が出る、足が出る、怒鳴る、圧する。もちろん、どんな世界にも例外はある。しかし男女を比較した時に、どうしても男性の本質に女性よりは何倍もの「暴力性」を感じてしまいます。いざとなれば最終的に暴力が出てしまう「男」という性。どなたか、わたしのこの「偏見」を根本から正してくださる方はおられないでしょうか。
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