「生き延びる」より、「愉しく生きる」がより大事

 宮藤官九郎作のドラマ『不適切にもほどがある!』が大きな話題になったのは、普段はテレビドラマに関心のない年齢層にも、強く訴えかける内容だったからでは?と想像した。

 ドラマは昭和時代から令和へとタイムスリップしてしまう主人公の驚愕と戸惑いをコミカルに描く。
人類に置いて世代の相剋などどの時代にもあったはずだが、科学技術のあまりにも早い変化は20世紀後半からは特に顕著で、これまでの100年200年単位での変化をわずか2、30年で体験している感がある。つまり強く印象に残ったのは「時代のあまりにも早すぎる変化」である。それに戸惑い意識がついていけない世代と、新しい世代とのギャップが、髪型や服装、音楽や「考え方」の流行として描かれているので、懐かしくもオカシクて笑いながらも、いつの間にか若い反抗児だったはずの自分が「年寄り」に分類され、デジタル化やIT、AIなどという情報についてゆけず右往左往する旧存在に属しているという現実が主人公の姿に重なって、軽い衝撃を覚えた。印象に残る優れた娯楽ドラマであるが、それがまた山田太一が一時代を築いた『岸辺のアルバム』などとは大いに違ってカジュアルな評価であるのが、またいかにも時代を映していると感じた。いまの日本の風潮は全てがライトであり、人付き合いも思考も思想も、重く深く複雑で重厚なものは「鬱陶しい」「うざい」と遠ざけられる。

 しかしわたしは失望もせず、希望も失わない。なぜなら、深く重く重厚で人々が思慮深かった(?)時代に、果たして人々は幸せだっただろうか? 戦争もなく、家庭も社会も風通しが良く、人々は和気藹々として、飢えもせず、世界はのんびりとして平和だっただろうか? もちろん答えはノー。今よりずっと人々は息苦しく、さまざまに抑圧されて、貧しく、人生は愉しむどころか忍従の修行のようなものであったろう。「昔はこうだった」「いまの若いもんは!」と嘆き、苦虫を噛み潰して嫌われるよりは、必死に生きる若い人たちに共感して新しい時代の波を新鮮な好奇心で受けとめ、乗ってみる方がよほど楽しい。それが嫌で到底できないと自覚するならば早々と世を去るか、人を困らせないよう偏屈居士を自認して、孤高のうちに自分なりに人生を生きるも良し。
 「教養」もないようなつまらない政治家が権力保持という妄想に取り憑かれて民を巻き込み支配する姿を見ると、「教養」は足りないながらも「愉しむ」ことにかけては軽薄なほどに健全なわたしは、マジで「うざい」「鬱陶しい」、「早く消えて!」と若者のような視線で願ってしまう。ちなみにパワハラ、モラハラ、セクハラの権化のようだったドラマの主人公は、昭和と令和をタイムスリップするうちに我が身を反省してどんどんと柔軟になり、「イケてるオヤジ」に変わってゆく。人生は愛し愛され、愉しくなければ虚しいと、心から想う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました