万葉の里、大和は藤原京・平城京の山裾に38年を暮らした。その頃から「奈良は遠くにあって想うもの」という気持ちが、どういうわけか離れなかった。
三輪山、二上山、畝傍・耳成・香久山の大和三山、甘樫の丘、少し足をのばせば若草山、三笠山、葛城山、高取山、そして吉野山。どれも万葉集や古今和歌集などに繰り返し歌われており、ことに「東の野に炎の立つ見えて かへりみすれば月傾きぬ」(柿本人麻呂)や、「春すぎて夏来たるらし白妙の 衣ほしたり天の香具山」(持統天皇)など、普段の奈良の田舎の日々の暮らしの中で目にする光景が歌われているので自然に口の葉にのぼり、大好きな歌であった。
この、奈良の三輪山の麓で三人の子を育てたが、出産後に病院からいただいたアルバムの巻頭に、山上憶良の「銀も金も玉も何せむに 勝れる宝子にしかめやも」という歌があり、これも未熟な若い母となったわたしの胸には深く沁み励まされて、何度となく口ずさんだ。五七五七七のリズムは心地よく、断(だん)として終わってしまう俳句よりは、何倍もわたしの性に合っていたように思う。しかしだからといって地の利を生かして日本の国文学を学ぶでもなく、特段、和歌にのめり込むこともなかったので、よもや『源氏物語』を読むことなどは生涯あるまいと思っていた。異論の向きもあろうけれど、わたしにとって奈良時代までは、朝鮮半島の息吹き残る何やら親しく懐かしい空気を感じていたが、平安ともなると全き日本風で、何かよそよそしい他人行儀。漢文漢字で表現されていた歌が、独特の草書かな文字に変わっていった日本化の時代には距離を覚えていた。ところがである。
如月の外国への旅に、わたしは源氏本と現代日本でバリバリと働くフェミニスト本を携帯し、読み比べるうちに案外とというべきか、権力さえあれば平安の女もそれなりに強くしたたかに生きていたことを知って意外の感にうたれた。もちろん医学は進んでいないので、女の出産や産褥は命懸けであったが、「この世をば わが世とぞおもうー」と歌った絶対の最高権力者・藤原道長の正妻、倫子は九十歳、側室の明子は八五歳と、ともに当時の状況を思えば考えられない程に息災で長生きだったことに驚いた。遺伝子レベルでの生まれ持っての身体の強さや、生活の苦労などのない恵まれた豊かな生活、性格や運の良さなどからくるストレスの少なさも、長寿に関係したかもしれない。
気のせいか、コロナ禍以来、六十代の同窓生やまだ七十を超えたばかりの友人、知人たちの逝去の報が続き驚いている。一方、毎日、郵便受けにはフイットネスやジム、運動を促すチラシなどが運ばれ、テレビではサプリメントのコマーシャルがこれでもかと健康を促す。しかしでは、あの二十キロはあったという重い着物を着込み、運動はおろか、膝でいざるように部屋の中を歩き(筋肉は鍛えられたかもしれない)、清々しい運動や自由な外出さえままならなかったはずの倫子や明子の長寿はどうだ!?
まずは普通の身体と、自立した精神。心配のない経済的な保証、誰にもいじめられない権力や地位があってストレスが少ないこと。これさえあれば平安時代の女も(限られた上級に属さねば叶わないが)現代の女も満たされた長寿を寿ぐことができるかもしれない。強迫観念にかられた過剰な運動は控え、清浄な水と塩、四季折々の新鮮な食材と生活を快適にする適度な家事労働。人に依存せず、助け合う精神を持ち、ただわが身のためだけにダラダラと生き続けるのではなく、少しでも誰かの笑顔と共にあるために、命の限りを尽くして生きたい。
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