五島列島は、大小152の島々の総称。縄文、弥生の頃から人が住みついていたという。日本書紀にもその名あり(知訶島)。御多分にもれず、現在の住民は15万人を誇った最盛期からざっと半減のおよそ七万。福江島・久賀島・奈留島からなる五島市周辺と、長崎に近い若松島、中通り島を中心とする「上五島」からなる。152島の中には無人島が多く、つい最近、野崎島は最後の住民が亡くなり無人になった。幾重にも重なった島かげは夢のように美しく、どの入江を曲がってもその度に新しい絶景が絵のように開けて、歓声を上げずにはいられない。それぞれの島のどこからも海が見え、潮騒は近い。「島」というものが実感として迫り来る。島といえば普段は意識されないが、日本国そのものが「列島」と呼ばれる巨大な島国なのであって、そのぐるりは海に囲まれてどの国とも国境を接していない。五島列島には、全島これ椿というほど椿が自生しており、今や島の一大産業になっている。数年前に訪れた韓国・済州島のシンボルもまた椿で、2200万年以前には陸続きだったことを彷彿とさせる。
本来は、明日をもしれぬ過酷な運命に翻弄されたり、砲弾の降り注ぐ中を逃げ惑うくらいなら、太陽と月と、大地と海と空と、清らかな空気と見知った気心の知れた仲間と、愛する家族とだけで十分ではないか。海の幸、山の幸、昨日と同じ今日、今日の続きの明日。気のおけない懐かしい面々と、20数年間、犯罪も事故もないというような平穏を、人はなぜ捨てて島を出てゆくのか。いやどうも、そうはいかないのが人間である。「日本国」という巨大な列島も、最西南の五島列島も、直面する課題は、似ていて、しかし非なり。波のまにまの外界と外敵に怯えて島をガチガチに要塞化するか、門戸を大きく開いて他者を受け入れ陽気に呑気に愉しむか。いま、両島の決定と歩む方向は、真逆である。
五島といえば、いわずと知れた潜伏(かくれ)キリシタンの島である。いまなお遺る過酷なキリスト教迫害の歴史的遺産は「長崎と天草地方の潜状キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されている。その中の一つの教会で目にした「神よ、私はあなたに背いたことを心から悔やみ 助けによってこののち再び罪を犯さぬことを 固く誓います」という信者の懺悔と、小説家・遠藤周作の原作を映像化した『沈黙』の世界が、彼らの殉教の跡を辿る旅の間中、頭の中をぐるぐると廻り離れなかった。力を持たぬ質実で素朴な善男善女を、神よ、なぜあなたは労うことも励ますこともなさらずに、厳しく打ち続けるのか。神よ、あなたは本当におられるのか、どこにいらっしゃるのか。おられるのなら、なぜこれほどまでに、あなたを信じる者たちに試練を与え、苦しめるのか。
魂に関わる問いに正解などありはしないだろう。ただ一つわたしの信じるところを言えば、命を生け贄(犠牲)に差し出させる宗教に神は存在せず、ただ人々を思いのままに支配する権力にしかず、という確信である。犠牲となることに、人は歓びと充足とを覚えてはならない。わたしの知る、過酷な試練に晒され続けているもう一つの島、沖縄の至言は「ぬちどぅ 宝」(命こそ 宝)である。死んではならない。生きて朗らかに笑う人生を全うしなければならない。そのことのために人は生きなくてはならない。『踏み絵』はただの板に過ぎないのだから、踏んでしまう弱き者たちを大いなる神が許さないはずはない。
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