山から、モッコ来るよ

 4歳から9歳まで、がらんとした津軽平野の真ん中にどっしりと美しく裾野を広げ、春夏秋冬・朝な夕なに刻々と姿を変えながらも、いつも泰然とある岩木山の姿を眺めて育ちました。その自然環境はふり返ると長い人生の中ではたった5年間だということが信じられないほど、わたしは大きな影響を受けて育ったように思います。
 日本人家庭ではない我が家では、両親の会話はしばしば朝鮮語で食事の献立も基本的には朝鮮料理でした。それはわたしたちには当たり前のことでしたが、他家からどう見えていたかは判りません。時々、意地の悪い人間が、日本人でないわたしたちに嫌味をいったり意地悪をしたかもしれませんが、幸いなことに、むしろそのような人々を軽蔑するくらいの「まともさ」と「負けん気」はあったので、そのようなことで凹むということはほとんどありませんでした。(しかし後年、多くの朝鮮人に尋ね、わたしのような環境は大変に珍しいことだったと理解しました…)

 それぞれ、27歳と15歳で朝鮮の故郷を離れ日本へと渡った両親が選んだ日本語は、東京の山の手言葉でも標準語でも、ましてや博多弁でも関西弁でもない、津軽の中流家庭で使われる言葉でした。昨今わたしたちは「在日(ザイニチ)」という慣れない名で呼ばれることが多くなりましたが、わたし自身が初めてその名で紹介されて戸惑ったのは40歳近くになってからのことですから、ましてや渡日一世である両親にその呼び名はまったく相応しくありませんでした。
母は幼いわたしを叱るときに、しばしば津軽弁の「山からモッコ来るよ」で脅したものでした。
 モッコは、もっ子だと思うのですが、要するに鬼?のような、魔物のような、恐ろしいものなのです。小さな時には言葉のイメージだけで簡単に騙され、怯えてわぁわぁ泣いていました。いまなら秋田のナマハゲか西洋のトトールのようなものでしょうか。しかし兎に角わたしにとってモッコの住む山といえばそのまま目の前の岩木山でしたので、冬の夜などにその名が出ると効果てきめんなのです。
ところがある時、その岩木山で秋田の高校生5人が冬の登攀中に遭難し、四日間の間に1人を残して4人が亡くなってしまうという大惨事が起きたのです。1964年のことでした。7、8歳だったわたしは大人たちの心配そうな会話をそばで聞いているだけでしたが、この事件が強烈な印象として残っているのは、当時ちょうど兄が同じ高校生だったことと、生き残った学生は朝鮮の子で、彼が1人生き延びたのは日頃からキムチを食べつけていて体が強靭であったから、と周囲の大人たちが(といっても、そんな話を堂々と囁き合ったのは、コリアン・ソサエティの中でのことだったと思うのですが)しきりに話していたからでした。
 何か不測の事態が起きる時ほど根拠があるにせよ無いにせよ、人々が普段の生活で考えていることや心情がパーっと溢れ出てくるものです。実は5人の学生の中の一人に、在日朝鮮人を思わせる金のついた名の生徒がおりました。大人たちは生き残ったのは朝鮮人学生で、普段から滋養強壮の元になるニンニクを食べ、身体を温める唐辛子をキムチなどで日常的に食べていたお陰で、彼は一人だけ助かったと話の種にしていました。しかし実際にはその金のつく名の学生は亡くなっており、生き残ったのは別の学生でした。しかしそれでも、わたしの周りの朝鮮の大人たちが朝鮮人の身体の頑健さを誇りとし、それを日常の食生活の充実としてうなづき合っているような環境は、幸いでした。後年、暮らした大和では重大な事件の後で「犯人は、どうもあっちの人らしい…」とヒソヒソと陰湿な噂が人々の口の端に昇るのを聞いておりましたので、ここでの子育てはなかなかシビアだろうと覚悟したものでした。
 もとより山に責任はありませんが、津軽の岩木山と万葉集に歌われる三輪山や二上山の「気」が同じであるはずもなく、裾野に暮らす人々の精神や情緒に大きな違いを生んでいることを心して尊重したいものです。出身地を同じくする朝鮮人といえど、大和言葉を話す朝鮮人と東北弁の朝鮮人の様子が大きく違っているのはいうまでもありません。文化というものは年月の間にそうやって生成し、受け継がれていくものです。

 

 

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