この日(10月25日・水曜)の朝、なんとなくTVを見ていて本当に良かったと思いました。そうでなければ、生涯この方と出会うことはなかったと思ったからでした。増田セバスチャン、本名は増田ひろしさん。仕事上の肩書きはアート・ディレクター。説明されないと、一体どんなことをなさる仕事なのかは想像がつきません。とても特徴的な帽子とめがね、奇抜な色使いのスーツという個性的な出立ち。しかしそれは物静かで穏やかな風貌と相まって、彼にはとてもよく似合っています。1970年生まれの53歳。松戸市の高校を卒業した千葉出身の方ですが二年前に日本を離れ、NYに活動の拠点を移しているそうです。増田さんのことはまるで知りませんでしたが、歌手きゃりー・ぱみゅぱみゅさんやシノラーと呼ばれたタレント篠原ともえさんの、衣装をはじめとする丸ごとの世界観をコーディネイトした人といわれて、合点が行きました。溢れんばかりの色の世界、カラフルなピンクや黄色、赤、青、緑、オレンジなどの底抜けに明るい原色、色の競演。まさに日本が世界に発する< KAWAII>原宿文化を作り出した元祖なのだということが判りました。わたしはきゃりーもシノラーも苦手で、どちらかといえば侘び・さびの落ち着いた色合いやシックが好きなので、増田さんとの接点はほとんど何もありません。ところが番組の中で彼のことを知るにつれ、若い頃から今日まで、謙虚で誠実で真っ直ぐに歩んでこられたのであろう増田さんの人間性にどんどん引き込まれ、偶然の出合いに心から感謝せずにいられなかったのです。色のない世界から色のある世界へと志した彼の作り出す独特な明るく可愛い世界は、20代の頃は理解も共感もされなかったのでしょう、散々に悪くいわれたそうです。商売というよりは「とにかく自分の世界を見てもらいたい」と25歳で原宿に開いたショップ「6%DokiDoki」は、売り上げがゼロの時もあり、店を維持するためにアルバイトをしていたこともあるといいますが、徐々に熱狂的なファンを得ることになります。子供の頃、手塚治虫や藤子不二雄の漫画に魅せられていた少年は、高校を卒業するとその道に進むために大阪に向かいます。しかしそこで引きこもりになり、図書館に入り浸る日々に出会ったのが寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』でした。そうして大阪を引き上げて東京に戻り、演劇、アートの世界に飛び込んでからの一直線の日々が、今では彼を世界に日本の「カワイイ」を発信して押しも押されもせぬアーティストの地位へと押し上げたのでした。海外においても「カワイイ」が若者たちにこれほど受け入れられる理由を、増田さんは「辛い時代に、カワイイが、彼らの精神的支柱になっているのではないか」と分析します。世界がなかなか平和にならない中で、発信する増田さんの世界観に共振する人々との出会い。まだまだ自分は少年のようでもあるといい、来ていない未来と将来についても語ったのでした。80年代の日本のアートシーンを牽引した糸井重里氏は、増田さんには妄想を実現していくような力があり、彼は世界を再構築しているのだと思う、と増田セバスチャンを高く評価します。超現実的で「重厚な」権力者たちが世界中で暴力、軍事力を使い破壊と殺戮をしながら、平和主義を非現実的と侮り軽んじて揶揄し馬鹿にする言葉に「お花畑」があります。女の子たちが憧れてプリンセスになり切るような、甘い夢の世界があります。増田さんが人生でもっとも影響を受けたという寺山修司はわたしとは同郷の人ですが、その寺山に18歳の時の作、「マッチ擦る つかの間海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」という歌があります。増田さんの世界観を共有していたはずの独特の子供のようななりが大人気のきゃりー・ぱみゅぱみゅは、日本政府の愚行にノーを表明したと、思いがけないほどのバッシングを受けました。叩いた人々は、彼女を単に可愛いだけの意思のない人形とでも考えていたのでしょうか。「意思あるカワイイ」がどれほどに深い魅力か想像もできずに。子供の頃から世の中に対して反抗するようなところがあったという増田セバスチャン氏は、今、「ひとりでは何もできない、多くの人に手伝ってもらって仕事を成し遂げている」と謙虚に語りながら、黙々と強靭な精神で、既存の残酷な世界に対抗する仕事である「明るく楽しくカワイイ世界」を再構築しているのだと、番組が終わる頃にはわたしにも彼の「志」がはっきりと判ったのでした。わずか40分ほどの短い番組が、わたしに一人の素晴らしい若者との忘れ難い出会いをもたらしてくれたこと、その偶然に心から感謝せずにいられませんでした。
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