文化的背景1 ー育ちの良さー

 島国・日本国の新年は、元旦から北陸能登での大地震という大変な幕開けとなった。つづく二日の羽田空港での大事故。新年を寿ぐ明るみは、宙に浮かんだままで納まるところを知らない。こういう時、神妙になるべきと判ってはいても、いやむしろだからこそ「禍福はあざなえる縄の如し」と腹を括り、他人事である人たちが冷静に客観的に事態を観察してより良き支えとなり、皆が教訓を学んで力として蓄えていくことが大切である。その中には同じように沈み込むのではなく、意図的に常に前向きな楽観性を失わないでおくというのも、貢献できる大事なことだ。当事者には到底、叶わぬことなのだから。

羽田の日航機事故では、訓練の成果を生かして379人全員を無事に生還させた乗務員の働きが大いに評価された。同時にそれに冷静に応え、機内の他の乗客に「大丈夫」と繰り返して落ち着かせてくれた男性客の声が、奮闘するCAにとっても大きな励ましと力になったはずではと語る元CAの声があった。その通りだと思った。適切な人の言葉と前向きな意志。不測の事態が起きた時ほど、人間の本性というものが露わになる、人格が問われる。政治家でも乗務員でも、たとえリーダーですらないたった一人の存在でも、不測の事態に希望を失わぬ、勇気ある前向きで冷静で適切な有り様、つまりは個々人の人格が一瞬にしてその場を良い方向へと導いてゆくことがある。だから私は「育ちの良い人」が好きである。ここでの「育ちが良い」という言葉の含意は、もちろん学歴や育った家の経済力のことではない。心の中に「愛」を宿して、温かく伸びやかに成長した人のことである。

 選挙で選ばれ権力を行使する立場にある政治家と一般人では、出来ることがまるで違ってくる。公的なことを決定し実現してゆくのが、選ばれた立場の政治家である。ことに与党である。その与党議員が真に国民の方を向き、国民の健康、生活、幸せのために働く人々であるならばその国は幸いである。しかしそうでないなら国民は不幸である。元旦の能登半島の凄まじい状況に、一般の人々は驚き、嘆息し同情はしても、できることは少ない。
 政治家である山本太郎氏は(好き嫌いは別として)、平素よりこのような時に真っ先に人々のために行動しようとする情熱的で、温かな血の通った政治家である。彼はいち早く現地に入り、被災した人々に直接に困りごとを尋ねてメモを取り、国に望むことは何かを聴くために、政治家として出かけたのである。避難所で山本太郎氏と直接話した被災者の一人は、必ずしも「れいわ新撰組」の支持者ではないが、山本氏が困難な中をこうして来てくれたことは、有難く嬉しかったと述べている。甚大な被害を受け不安な中で、見捨てられたような孤立感の中にいたであろう被災者にとって、なにはともあれ一般人ではない国会議員に直に話を聞いてもらえたということは、どれほどの安堵と励ましになったかしれない。その山本氏に対して「迷惑も顧みず現地に入った」「目立ちたがりの点数稼ぎ」「炊き出しのカレーを食べた」と、ネット上で重箱の隅をつつくように叩く人間がいた。なんという卑しく浅ましく、愚かでケチな根性の人間なのだろう。このような人々にとっては、どんな国民の災難もここぞとばかりに政敵を追い落とし、政局に利用すべきという文脈になってしまうのだろう。さらにはあろうことか林官房長官に向かって「山本太郎氏の行動をどう思いますか?」とマイクを向けた時事通信社の記者がいたという。今、彼が訊くべきはそんなことだったのだろうか?本来、政治とは国民の幸せを目的とするものなのに、政治を権力の行使と考え、それに陶酔しているうちに手段が目的になってしまう輩がいる。

 不測の事態にこそ、人間の本性が現れる。100年前の関東大震災時、未曾有の惨事を利用して政府は左翼思想を一掃しようとし、大杉栄や伊藤野枝らを惨殺し、6600人もの朝鮮人ジェノサイドを誘引、見殺しにした。その時、もちろん身をもって朝鮮人を助けようとした人々もいたが、権力はそうではなかった。その苦い歴史を忘れまじと、毎年東京都墨田区の横網公園で行われている朝鮮人虐殺の慰霊祭に、小池百合子東京都知事は2017年から何度請われても、これまで歴代の都知事が送ってきた朝鮮人追悼のメッセージを送ることをしない。たった数行の言葉で多くの人が慰められ安堵するというのに、頑としてそれを拒んでいる。以前わたしはユニークで実行力のある彼女が好きで、女性の政治家としても大いに期待し応援していたが、まずは人間としての真っ当な愛も温かみもない、政治家としても器の小さな単に権力志向の強い平凡な政治家だったのだと判り、心から失望している。彼女が夢見る政治的世界に冷たい氷の女王は君臨すれど、その女王に人々を癒す温かな慈愛はないだろう。

 今、世界中が真に「育ちの良い」政治的リーダーの出現を待ちわびていると思えるのだが、その人は今どこにいるのだろう。2024年に果たしてわたしたちは、その人に出会うことができるだろうか。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました