文化的背景3 ー人、そのものがー

 カナダ在住のジャーナリスト・乗松聡子さんの紹介で、早尾貴紀氏による詳細なガザ・イスラエル事態の解説を聴きました。これまで知っているようで知らなかったこと、それまで曖昧だった事柄がすっきりと整理され、まさに目から鱗が落ちるようでした。一筋縄ではいかないどころか、幾重にも絡み合ったユダヤとヨーロッパの歴史、イスラエル国民の立ち位置の危うさ。ドイツのホロコーストで信じられないような苦しみを経験したはずのユダヤ人が、何故に同じような酷いことをパレスチナの人々に加えられるのかーその心理。イスラエルの中でも、建国の折にロシアから逃れてイスラエルに辿り着いたアシュケナジー・ユダヤといわれる人々と、ヨーロッパ由来のスファラディ・ユダヤには微妙な違いがあり、国内で対立や差別があるということも初めて知りました。

 ある物語をふと思い出しました。昔、といっても1970年代のことですが、名優・森繁久彌さんが家族をこよなく愛するユダヤ人家庭の父親・テヴィエ役で主演し、超ロングランとなった『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカル。1967年にブロードウェイで初演され、公演回数は3242回を数えたというほど大人気を博した作品です。舞台は19世紀から20世紀初頭のアナテフカ村、現在のウクライナです。そこでのユダヤ人たちは、帝政ロシアのポグロムと言われる迫害・差別政策下で悲惨な状況にありました。わたしはこのミュージカルを1976年、学生時代に観たのですが、ユダヤの伝統と政治的状況に翻弄される三人の娘たちの結婚や、ユダヤのしきたりを護ろうとするテヴィエの苦悩、村の人々の暮らしの厳しさなどが当時の在日コリアンの状況とも重なって、印象深い作品でした。ところが今は、その作品の中でテヴィエたちがされた同じようなことが、今度は皮肉にも全く逆の立場で、ユダヤ人によってパレスチナの人々に加えられているのです。パレスチナの自治区と言いながら、イスラエルはガザはもちろんのこと、ヨルダン川自治区でもジリジリとパレスチナの人々を追い詰めて入植地を広げ、もはやパレスチナ人に残された土地は18%しかないといいます。

 2024年の日本の幕開けは、元旦から大地震、航空機の事故、火災、政治家の不祥事、芸能界のスキャンダル、愛されたスターの訃報と続き、新春を寿ぐ気分とは遠くかけ離れてしまいました。そのようなニュースに繰り返し晒され反応しすぎると、理性的な思考も、精神の平安も保つことができません。羽田空港で起きた航空機事故の原因では、いかに機器やシステムが高度に発達しても、最終的にはヒューマン・エラー、つまりは人間そのものの人為に関わってくるということが指摘されていました。まさに、その通りなのです。

 昨年末に、本土の賑々しいクリスマスの喧騒とは違い、むしろ人々の原罪を一身に贖う存在としてのキリストの誕生の日を、厳粛に静かに迎えているかのような五島列島を訪ね、また、空海が唐を目指したという福江島の柏崎・辞本涯の荒波の光景に息を飲み、それぞれの地で、それぞれの人々が紡いできた歴史に圧倒されました。正月のTV番組に、偶然にもタイムリーにも遣唐使・空海の路程を紹介するものがあり、今度は私自身が空海になって柏崎・辞本涯から出立し、実際の空海の旅を追体験しているような不思議な僥倖に預かりました。あまりにも雄大かつ多様で絢爛な唐のありように息を飲みました。 悠々と歴史の大河を流れきた現在の中国は、人口は14億4296万余、GDPは18兆億ドル。軍事力はアメリカ、ロシアについで世界第三位。当時の空海は、目を輝かせ胸躍らせてあらゆるものを吸収しようと勤めたに違いありません。空海たちが命をかけて日本に伝えた密教は今では中国本土ではほとんど絶えてしまい、今、中国の僧は逆に日本に留学し学んでいるのだそうです。誰がではなく、なにが大切かといえば、彼らにとっては仏の教え、それが大事なのです。ところがこういう時に、必ず優劣をつけねば気の治まらぬ人々がいます。素直に認めれば良いものを「日本は唐と対等であった」「日本民族は常に他民族に優越した神の国であった」等々。例えば教室内での生徒と教師の関係は、人間としては対等ですが、教え教えられるという立場にはやはり上下があるでしょう。生物としての男女の違いもはっきりとしており、しかしそれは個性であって優劣ではありません。双方の優れた点を敬い、欠けた点を素直に認め教えを請い助け合うということができないのは、コンプレックスでしかありません。

 正月のNHKの朝ドラ『ヴギウギ』は苦しい戦争の時代を描いていましたが、「この戦争に絶対勝つ」というセリフが度々出てきました。戦争に勝つ、とはどんなことを指すのでしょう。これがスポーツなら判りやすい。勝敗には明確なルールがあり、フェアに戦ってそれぞれの陣営は結果が出れば勝っても負けても互いを讃えあう。なにしろ、スポーツの目的はただ一つ、退屈な人間が考え出した「愉しみ」に他ならないのですから。ところが「戦争に勝つ」とはどれほど「国家の為」などという大義を掲げようと、幸せや楽しみとは対極の、意味のない苦しみと悲しみと破壊と絶望しかないのです。

新年最初の読書は、冲方丁(うぶかた とう)氏が4年の歳月をかけた『月と日の后』でした。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の その欠けたることも なしと思へば」と一身に権力を集中させ、その権勢に酔い、権勢をふるった藤原道長と、その娘で一条天皇の后となった彰子の物語です。力(金、暴力、地位・権限)を持って他者を支配し、従わせ、単に意のままにしたいという欲望。君臨せずにはおかぬという子供じみた欲望。その一人の人間の愚かしさ、というより狂ったエゴこそが全ての不幸の根源であり、そのような愚かしさとの闘いこそが、いま、二度と再び人々が自他の尊い命を虚しく失わせないという、まともな民主主義への道です。なかなかにハードな、しかしやりがいのある皆が喜ぶ「スポーツ」ではありませんか?ルールにそってシンプルに、フェアに楽しみながら、タフに。戦争なぞいらない。ボールはあっても、核爆弾もミサイルも、戦車も銃もいらない。これからの時代は、熱と相手への敬意と言葉を貴しとする文化を、シンプルな人類共通の絶対のものとして根付かせていかねばなりません。これこそが新年の本懐です。
 なにやら歴史は、古代ローマのコロッセウムで人々が高みの見物とばかりに、人間と猛獣の血みどろの戦いを無邪気に楽しんだ酷い時代に戻っているようにも見えます。が、決してそうではない。これからの時代は、少数の権力者の作ったルールに民が苦しむのではなく、大多数の民が対話して創りあげたシンプルでフェアな納得のルールのもとに皆が人生を愉しむ。そうなることを信じます。

 

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