文化的背景2  ー古都に想うー

 正月、ふとスイッチを入れたTVの清らかな画面に惹きつけられて、ついそのまま腰を降ろし長いテレビ番組に見入ってしまいました。38年を暮らした懐かしい奈良・春日大社を紹介するNHKの番組でした。わたしには懐かしい場所です。

  人生とは、何も書かれていない原稿用紙や真っ白なキャンパスのようなものだと思います。思い通りにいくこともあり、いかないこともありますが、とりあえず向き合う作者は自分自身です。才能と運に恵まれ、会心の出来にニンマリと満足する人もいるでしょうが、やり直しのきかない作品に頭をかきむしり、作品を反故にしてしまいたいような後悔と失望に苛まれる人もいるでしょう。 
東北の津軽で生まれ育ったわたしが、幼い頃には想像もできなかった関西は大和の国で人生の半分を生き、いまはまた思いがけない成り行きで関東に暮らしています。しかしわたしという人間は臆病ながらも好奇心のまま、行き当たりばったりの偶然をこよなく愉しむような、本来は風のように自由でいたい質。どんな時にもすぐに「ではどうするか」というデンジョラスな課題の方ににワクワクしてしまうような楽観の傾向がありました。奈良に暮らしていた時から、いつかはここを旅人として訪れているという幸せな姿が、振り払っても振り払っても頭に浮かび訝しく思うほどでした。もちろんそれがこんなにも思いがけないほど早く、コロナ禍を機に現実になるとは予想していませんでしたが…。

 奈良というのは、実は知る人ぞ知る夜の町です。春日大社の若宮御祭も若草山の修二会(お水取り)も昼の京都の賑々しい祭りとは違い、千年に渡って森閑とした闇の中で今日に至るまで密やかに受け継がれてきた神事なのです。それはいかにも秘儀と呼ぶに相応しい静謐で厳かなもので、広く人々に公開される姿とは別に、決して人々の目に晒されることなく秘匿されてきました。
御笠山の森から神を迎え食事を供する御祭は、真夜中0時の暗闇の中で始まります。番組は特別な許可のもとに特殊なカメラ映像で、普段は決して一般の国民には触れることがない春日大社の秘儀を伝えていましたが、実はこの映像にもわたしは懐かしさを覚えていました。キリスト教信者が少なくない朝鮮半島の韓国では、いまでは儒教由来の「祭祀」を全くしない家庭も増えているようですが、圧倒的多数である儒教的な一般家庭では、いまも過去に遡って4代前までの先祖を祀り拝礼する一族揃っての「祭祀」(チェサ)は、最も大事な家庭内行事として受け継がれています。その家父長的行事はしばしば婚家に馴染めない若い妻たちの呻吟として『82年生まれ キム・ジヨン』などの小説にも取り上げられるほどです。しかも一般家庭の祭祀ですら厳密なしきたりは、正式には春日大社や皇室と全く同じように深夜0時に執り行われるものなので、小さな子供だった頃のわたしたちもその時間まで眠い目をこすりつつ、途中うつらうつらしながら参加するのは大変なことでした。
 嫁して、奈良・談山神社の供物の盛り方を見た時には、朝鮮の一般家庭で行われている祭祀のあり方と全く同じだったことに驚いたものでした。日本も朝鮮も近年までは農耕社会で、ムラの共同体の中に一族郎党が寄り集まって生活していました。いまはその頃と違い若い人たちの仕事は都会での勤めが主流になり、子供たちには翌日の学校があります。先祖伝来の「祭司」深夜ではなく早々と夕食時に繰り上げて行い、晩餐をともにして「祭祀」とする現実主義が多くなってきました。ここに宗教的な「神事」の厳かさは既にありません。それでも律儀に行う心根を評価するのか、ご都合主だと非難するのか、正解はありません。ただ守られてきた伝統や独特の文化は、急速に消滅してゆきます。

 2023年大晦日の紅白歌合戦は、流石に馴染みのない学園祭のようなダンスパフォーマンスのグループやK-POPグループが多すぎて戸惑いました。しかし後日、その事情を解説するような別番組の中で、次々にスターを生み出す韓国K-POPの名物プロヂューサーとして知られるキン・ミンジ氏が「どんなに時代が変わっても人が好きなものも、本能的に惹かれるものも変わらない」と述べているのをきいて同感しました。人はしばしば騙されます。善良で正直な人ほど人を信じすぎて報われず、ひどい目に遭ったりします。しかし、本当にそうでしょうか?何も書かれていない原稿用紙とキャンパスの主人公は自分自身です。騙される人は「相手を信じたい」、信じることで安らかになれるという理由のある人なのではないか。「善良なる愛」の故にこそ騙される「善人」なのであって、鼻っから疑心暗鬼で人を信じようともしない人間は、騙されるような目にはあまり合わないでしょう。「善は善なるがゆえに滅び、悪は悪なるが故に長らえる」と「信じるものは救われる」は、皮肉にも、ともにキリスト教の教えです。騙すより、信じて騙される方の「魂の清廉」は確かに尊く美しいものですが、しかし。

 わたしはスピリュアルなものにも惹かれ、人智を超えたものに畏怖を覚える臆病な人間です。しかし現実の世界を見れば、やはり「神様、あなたは何故に弱気者にこれほどの試練を与えるのか」と思わずにいられないのです。新年を寿ぐささやかな喜びの中にあった元旦の鄙の人々。その人々を甚大な災害は覆い尽くし、今日はあろうことか絶望する北国の人々の上に、冷たい雪までが降り積もっているといいます。
神様、あなたはどこにおられるのでしょうか。まさか、善き人の魂の中に生きておられるとお答えでしょうか。

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